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チベット問題 日本マスコミが伝えない中国の真実 4
3回にわたって書いてまいりましたチベット問題。今回は、ダライ・ラマ法王亡命後のチベットについて紹介していきます。その前に、ちょっとおさらいをしておきましょう。
 
 1956年、人民解放軍によるダライ・ラマ暗殺の噂が飛び交ったチベットで、噂を聞きつけた民衆3万が、ラサにある夏の宮殿周辺に集結。抗議運動が暴動化し、鎮圧しようとした解放軍が民衆に向けて砲撃を開始。チベット国内は大混乱に陥り、ダライ・ラマ以下、チベット国民8万がインドへと亡命する事態に。後にチベット動乱と呼ばれる56年から続いた中国支配への抵抗は、チベット国民8万数千が死亡する最悪の結果となった。ダライ・ラマ亡命を知った周恩来首相はチベット政府の解散を宣言。ここにチベットという国は中華人民共和国に滅ぼされたのでした。

 国家元首を失ったチベットの民は、現在に至るまで、政治、思想、宗教、文化的弾圧を受け続けています。特に60年代後半から中国大陸を吹き荒れた『文化大革命』の嵐も、容赦なくチベットを襲います。
 1958年から始まった、毛沢東による大躍進政策は大失敗に終り、中国国内の経済は崩壊し、飢餓で2千万~5千万人と言われるほどの餓死者を出し、毛沢東は国家主席を辞任。権力の座を明け渡した形となった毛沢東でしたが、林彪らを使って劉少奇国家主席などを権力の座から引き摺り下ろそうと画策。

 主に、毛沢東を信奉する10代の若者によって組織された『紅衛兵』は、『実権派』と呼ばれた当時の劉少奇、小平などに代表される権力者、資産家、インテリなどを中心につるし上げ、各地で大規模な殺戮を行い、11年に及ぶ文化大革命の間に、2千万人もの人命が落とされました。また、宗教を否定するマルクス主義を極端に解釈した紅衛兵は、チベットに凶暴な牙を剥きます。
 
 チベットに襲い掛かった紅衛兵は、寺院を破壊し、仏教を信仰する人々を殺戮し、投獄、拷問、処刑とありとあらゆる破壊活動を展開。
この紅衛兵を代表とする中国による破壊は、チベット亡命政府発表によると、当時あった寺院の99%以上である6千もの寺院を破壊し、120万人ものチベット人が命を落とす、想像を絶する被害をもたらしたようです。

 あまりに凄すぎて、想像も出来ないというか、イメージが湧きませんね・・・人間ってここまで出来るんだと、絶望してしまいます。チベットのような平和な仏教国に、このような地獄の門が開くなんて・・
紅衛兵は煽った張本人である毛沢東にも制御出来なくなって、人民軍を投入によって解散させれられますが、これはたったの50年程前に起こった話で、今現在も、当時と同じ『中華人民共和国』が中国大陸を支配しているのです。ああ・・恐ろしい・・
 (余談ですが、日中戦争時に死亡した中国人の数が年々増加している事が話題になりましたが、毛沢東による大躍進政策、文化大革命で死亡した数を、日中戦争で死んだ事にして、実際の死亡者数に加算しているそうです。なんでもありだな?中国ってのは。)

 話を戻します。狂気の嵐が去って、平和な時代がチベットにやってくるのかと思いきや、まだまだ中国によるチベットへの弾圧は続きます。
 まず政治的には、チベットに残ったダライ・ラマ法王に次ぐ、最高権威パンチェン・ラマ10世は、中国によってダライ・ラマ法王への批判を強要されますが、これを拒否し、逆に中国の横暴を批判。

 本来、このパンチェン・ラマ10世は、国共内戦当時、国民党によって勝手に転生者として任命され、その後共産党側の手に落ちる。ダライ・ラマが転生者の認定に関わっていないため、チベット側は認めてこなかったのですが、17か条の協定(詳しくは前々回のエントリー参照)を結ばされた際、パンチェン・ラマの認定も強要されたのでした。そういう経緯で認定されたのだから、中国側は思い通りになると踏んでいましたが、まさかの中国批判。

 激怒した中国は、パンチェン・ラマを10年間にわたって独房に監禁し、安否情報すら一切知らせなかった。ようやく、監禁から14年目に公式の場に姿を見せた際、ダライ・ラマにチベットに戻るよう呼びかけますが、中国側の命令であったことは言うまでもありません。
 しかし、不屈の闘志で中国に抵抗し続けるパンチェン・ラマ10世は、チベットの現状を打破するため、中国側と交渉を続けますが、1989年、チベットを訪れた際、中国批判を展開したパンチェン・ラマは数日後、不可解な死を迎えます。

 ダライ・ラマとパンチェン・ラマは、互いに次の転生者を認定する関係で、パンチェン・ラマ10世の死、イコール次の転生者指名という問題が出てきます。ダライ・ラマ法王は次のパンチェン・ラマ候補を捜索し、1995年、当時6歳のニマ少年をパンチェン・ラマ11世として認定します。その数日後認定を受けたニマ少年は、両親と共に中国警察当局に極秘裏に連れ去られ、現在まで行方がしれず、国際社会から再三の面会要求にも関わらず、中国側はこれを拒否し続けています。

 その理由は大変ばかばかしいものですが、呉健民国連大使(当時)曰く『少年は分裂主義者によって連れ去られるおそれがあり、身の安全が脅かされている』そうで、『中国当局は、ダライ・ラマ法王によるパンチェン・ラマの認定を非難し、ニマ少年が転生霊童であるとは認めていない』んだそうです。

無宗教の共産主義者が宗教指導者を認定する??バ○も休み休み言え!と言いたい。

 このパンチェン・ラマに関する記事を読んだのが、4回にわたるチベット問題のエントリーを書くきっかけとなったのですが、現在、ダライ・ラマ法王が認定したニマ少年を監禁する一方、中国側は別の少年をパンチェン・ラマ11世として『認定』したそうです。現在のダライ・ラマ14世は高齢ということもあり、このまま中国当局の『認定』するニセモノが次のダライ・ラマを認定するなんて事になれば、この世から、チベットという国だけでなく、チベット仏教、文化も消えてなくなるでしょう。

 中国は、現在でもチベット内で独立を叫んだり、デモをした人間を逮捕、拘束し、寺院では、ダライ・ラマを批判する事を僧侶に強要しています。さらに、チベット女性には避妊手術を行い、チベット人が増える事を制限し、700万人もの大量の中国人をチベット内に移住させ、現在ではチベット人が少数派となっており、教育現場でもチベット語はほとんど教えず、漢族との同化を目論んでいます。就職の機会もチベット人にはほとんど与えられず、ほとんどのチベット人は、貧民へと転落。この様に、チベットでありながら、中国の一地方へと着々と支配は進んでいます。

 この同じアジアにあって、中国という隣国が行っている非道な侵略を、なぜ日本のマスコミは報道しないのか。なぜ日本の政府はアメリカなどのように、チベットの人権について中国を非難できないのか。このような同じ人間とは思えない所業を許すのか?ちゃんと報道しろよ!

 ダライ・ラマ法王には、もうあまり時間がありません。最近ではチベット人の完全自治を条件に、独立は言わないと譲歩されたようですが、中国側は、実効支配がほぼ完成した状況であることから、法王の要求が実現する事は難しいと思います。しかしながら、一本の糸で繋がった最後の希望であるといえますので、なんとかチベットの人々が心待ちにしているダライ・ラマ法王の帰還と、チベット人による自治を果たして欲しいものです。

 今回でチベット問題についてのエントリーは4本目となりました。はじめはここまで詳しく書くつもりではなかったのですが、知れば知るほど酷い話だと、怒りを抑えられず(笑)にここまで書いてきました。ほとんどの情報はダライラマ法王日本事務所HPから得たものですが、人権侵害などの実態などは、想像を絶しています。他にもチベットにはたくさんの問題があります。核の廃棄場、核実験場など、あまりに問題が大きくて絶望しそうになりますが、興味をもたれた方は、是非一度訪れてみてください。

参考URL

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HP





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チベット問題 日本マスコミが伝えない中国の真実 3
 前回、前々回と2回にわたって書いてまいりましたチベット問題。
今回のエントリーでは、中国によるチベット侵略からチベット亡国への過程、中国によって引き起こされた様々な問題について紹介すると共に、チベットを鏡として、日本という国が今後どの様な方向に向かっていくべきか考えていきたいと思います。

 1950年、中国共産党率いる人民解放軍は、突然チベットに侵攻。チベットは周辺諸国、国連などに救済を求めますが、国際社会は中国を非難する声明を発しただけで、中国の横暴を止めることは出来なかった。 国際社会は何も出来ないと踏んだ中国は翌年、チベット政府代表団を招いた席で、17か条からなる『協定』(全文)を、署名か即時侵攻かといった恫喝で、署名する権限を持たないチベット側に強要し、ニセの印璽を用意して捺印するという卑劣な手段で結ばせ、チベット国内に勢力を伸ばす橋頭堡を築いたのでした。

 協定を結んだ事にした中国は、電光石火でチベットに進軍し、ラサをはじめ、チベットの主要都市を占領。駐屯する人民軍の莫大な食糧等の補給をチベット側に要求し、経済は破綻、国民は飢餓寸前に。一時インドに避難していたダライ・ラマ法王は、事態の打開を図るため帰国しますが、解放者の皮を被った侵略者、人民解放軍はチベットを中国に併呑する準備を強引に進めていきます。

 次々に要求を高める人民解放軍に国民の怒りは爆発し、チベット撤退を求める運動が起こりますが、中国は首謀者の罷免をダライ・ラマ法王に要求し、容れられない場合は武力解決を図ると迫ります。これ以上、国民が死んだり、苦しんだりする姿を見たくなかった法王は、この要求を呑み、国務相二人を更迭。その後も喉元に突きつけられた武力による圧力に耐え切れず、中国によるチベットの統治は完成に向かっていく事に・・。

 ダライ・ラマ法王に人事の要求をねじ込む事に成功した中国は、1954年、第1回全人代に法王を招待し、毛沢東以下、中国共産党の要人、ソ連の指導者、ネパールの首相ネルーなどが出席する中、法王に自由な発言を許さず、中国共産党が行った『解放』の象徴として利用し、チベットが中国傘下に入った事を、内外に印象付けることに成功します。

 北京で屈辱的な扱いを受けた法王を、さらに難題が待ち受けていました。 ラサに戻る直前に『西蔵自治区準備委員会』設立の提案がなされ、翌年、準備委員会を発足させる為、北京から副総理陳元帥が派遣された際、チベット政府要人はもちろん、ダライ・ラマ法王も出迎えに行く事を強要され、ここに国家元首としての尊厳は、踏みにじられることになりました。

 この『西蔵自治区準備委員会』には、中国側の委員と合わせて、チベット各地の代表も委員になれるという建前でしたが、中国政府の承認を受けなければならず、結局、中国側の息がかかった人物ばかりが委員となり、チベット側に極めて不利な形で発足する事となる。

 こうしてスタートした準備委員会でしたが、チベット側の意見は封殺され、唯一の機能として、中国政府が決定した事柄を承認するのみという、なんの決定権もない、ただのお飾りであったのです。おまけに、委員会主任として、ダライ・ラマ法王がチベット国民への権威付けに利用される事になり、チベット側は自分達の国の政策が、目の前で外国人によって決定されていく事を指をくわえて見守ることしか出来ませんでした。

 チベットは西蔵、青海、四川、甘粛、雲南の州や県に分割され、ダライ・ラマが統治出来るはずだった西蔵自治区も、上記の通り無視されるという、チベット国民を絶望のどん底に追いやった中国に、ついに反撃の狼煙を上げるチベット人達が出てきます。

 1956年、東チベットのカム地方、東北部のアムド地方の人々は一斉に武装蜂起。一時的に中国の軍事警察機構を一掃しますが、激怒した中国政府は反撃を開始し、制圧時にすさまじい弾圧と大虐殺を実行。戦火を逃れたチベット人や、武装蜂起した兵士達は、ダライ・ラマ法王のいる『西蔵』へ逃げ込み、兵士達は、米国CIAの支援を受けながら『西蔵』各地でゲリラ戦を展開しますが、ここでも中国との関係悪化を恐れたチベット政府は、ゲリラ兵達の支援を断り、抵抗は小規模な局地的戦闘で終わる事に。

 ゲリラ兵達の要求を断り、中国との関係悪化を回避しようとしたチベット政府でしたが、1959年に最悪の状況を迎える事になります。人民軍駐屯地に、観劇のため招待されたダライ・ラマ法王に、観劇には丸腰の従者数名で来るようにと通達した事が、法王暗殺の噂となって広まり、法王所在の夏の宮殿周辺にチベット人数万人が集結。中国当局は解散命令の後、チベット人達に砲撃を開始し、国内は大混乱に陥り、ダライ・ラマ法王と、それに従うチベット人、約8万人がインドへ亡命するという結果となりました。

 さて、ここまで一気に中国のチベット侵略と、チベットという国家がどのように無くなっていったのかを書いてまいりました。
この後、インドに亡命したダライ・ラマ法王は、インド国境を越える直前にチベット亡命政府の設立を宣言しますが、チベットを実質支配している中国に対して、有効な手立てを打つことはなかなか難しいようです。現在も続くチベット人への政治、思想、宗教的な弾圧によって、約13万4千人の亡命チベット人が、海外での生活を余儀なくされています。

 私は、ダライ・ラマ法王の、宗教家として非暴力を貫き、慈悲と愛を説く姿勢を大変尊敬します。そして、中国という侵略国家に国を蹂躙され、弾圧、虐殺によって亡くなられたり、傷つけられたりしたチベットの人々に哀悼の念を抱くと共に、中国許すまじという気持ちを強く持ちました。
 
 科学技術が発達し、人や物の移動が容易になり、世界が狭くなった現在、かつて平和な仏教国であったチベットが、自衛の手段を持たなかったことを責めたり、嘆いたりするのは詮無いことだと思います。平穏で急激な変化の必要がなかったチベットにおいて、強大な力をむき出しにして襲ってくる中国を撃退するだけの自衛能力を持て!なんて無理な話です。

 翻って、わが国『日本』はどうでしょうか?
今から10年以上前までは、憲法9条があるから平和が保てているという話が、かなり説得力を持った説として国民の間に浸透していました。のちに、『空想的平和主義』と呼ばれるこの説は、日本の自衛体制を強化する議論が自民党などで始まると、『武器があるから戦争が起こる』や、『自衛隊があるから周辺国は脅威とみる。だから解体しろ!』といった珍説で煙に巻き、改憲も含めて、自衛に関する議論自体を封殺しようとする集団が、国会に大きな勢力を持っていた時代に唱えられたものでした。(今でも『希少動物』扱いで、いることはいますが(笑))

 戦後60年、日本の安全を守ってきたのは、紛れも無く米国の軍事力と自衛隊です。特に米国の核の傘に入っている以上、日本の周辺国は手出しできませんでした。この抑止力によって安全が担保されていることを無視して、『空想的平和主義』がもっと国民の間で浸透し、自衛隊解体、または、米軍の日本撤退が現実となっていたら・・考えるだけで恐ろしいですが、チベットがたどった道を、我々も歩む事になったかもしれません。

 最近、改憲の手続きを定める国民投票法案が次期国会に提出されるようで、改憲に向けた動きが活発化してきました。自衛権は国家の自然権だから、9条第2項は削除しないで解釈論で対応すべきだといった反論も必ず出てきます。しかし、解釈論に関しては、『神学論争』といわれるほど堂々巡りを繰り返し、一向に国の自衛に関する議論は進まなかった事をしっかりと記憶しておくべきだと思います。

 最後に、一連のチベットに関する問題をほとんど扱わない報道機関については、憤りを感じるばかりですが、チベットが中華人民共和国と関わった事によって国を失い、なぜ、国家元首が亡命するといった異常な事態に至ったのかという歴史を特集するだけで、『空想的平和主義』の残滓が残る日本人の目は覚めると思うのですが、どうでしょうか?

 今回のエントリーで、チベット問題を全て書いてしまおうと思っていたのですが、まだまだ書かないといけない事柄が多いので、次のエントリーでも引き続きチベット問題を扱います。では、また明日。



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チベット問題 日本メディアが伝えない中国の真実 2
 一つ下のエントリーからの続きになります。前回は、チベットの近代までの歴史、中国との関わりを簡単にご紹介し、日本のマスコミが中国に配慮して、チベット問題をほとんど扱わない事などを書きました。
本日は近代以降、チベットがたどってきた道、とりわけ中国との関係に焦点を当てて書いていきたいと思います。

 最初に、チベット問題を語る上で最も重要になるチベットの仏教界、政治の頂点に立つ『ダライ・ラマ』法王と、それに次ぐ仏教界の最高権威『パンチェン・ラマ』の関係について、簡単ではありますが紹介します。

 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HPより要約。

 ダライ・ラマとは、モンゴルの称号で『大海』を意味し、歴代の転生者は慈悲の菩薩観音の化身とされている。現在のダライ・ラマは14世となり、自作農家に誕生後、2歳で転生者の認定を受ける。

パンチェン・ラマとは、『偉大な学者』を意味し、歴代の転生者は阿弥陀仏の化身とされている。現在のパンチェン・ラマについては、複雑な事情が絡んでいるため、次のエントリーとさせて頂きます。

 このダライ・ラマとパンチェン・ラマが、チベットにおける文化、宗教、政治の最高権威で、ダライ・ラマがパンチェン・ラマの転生者を認定し、パンチェン・ラマがダライ・ラマの転生者を認定するという、相互認定の制度を、約600年間続けてきたようです。
また、この転生者捜索、認定までにはチベットの伝統に則った方法が取られます。

 さて、ここから本題に入っていきたいと思います。
近代以前、時には外国の勢力に侵略され、支配された事もあるチベットですが、国の核心ともいえる宗教に関する事は何人も侵すことは出来ませんでした。
 しかし、そこに最悪の敵が現れます。そう・・無宗教の共産主義者達、今の『中国共産党率いる中華人民共和国』です。

 1949年、日本軍撤退後の中国では、蒋介石率いる国民党軍と、毛沢東率いる共産軍(後の人民解放軍)が激突し、45年から続いた国共内戦は共産軍に軍配があがり、ここに『中華人民共和国』が成立します。

 国内を統一した共産党は、次のような宣言を放送する。

人民解放軍は、中国全土を解放せねばならない。チベット、新彊、海南島、台湾も例外ではない

 周辺地域への侵略の意図をむき出しにした共産党は、実際に行動に移す事になります。

 この宣言に驚愕したチベットは代表団を派遣し、中国と外交交渉を試みますが、中国側から二つの提案が出されました。その内容とは、チベットは国防を中国の所管にすること、チベットは中国の一部であることを認めることといった、端からチベットの独立など眼中に無く、当然チベット側はこれを拒否。外交交渉は暗礁に乗り上げる事に。
 
 翌年、中国共産党は人民解放軍を派遣し、東チベットの州都チャムドを4万の大軍で侵攻。守るチベット兵はわずか8千、抵抗むなしく敗退し、州知事は捕えられ、4千名の戦死者を出す。

 突然の中国のチベット侵略に隣国インドも驚き、次のような書簡を共産党本部に送っています。

中国政府がチベット侵略を命じた現在、平和的な話し合いなど望むべくもありません。チベットとしては、交渉が強制の場になるのではないかという心配が当然出てくると思われます。現在の世界情勢からみても、人民解放軍によるチベット占領は、愚行としか映らないでありましょう。
また、わが国の外務省が慎重に検討しましたところでも、貴国の利益にならないのではないかと危惧いたします。

 

 このインドの声明にアメリカ、イギリスをはじめとする国々がインドの立場を支持しますが、当の中国はどこ吹く風。この後チベットには、インドが心配した事が現実になって襲い掛かる事になります。事態を重く見たチベット国民議会は、当時16歳とまだ若いダライ・ラマに国家元首の地位を引き継ぐように要請し、危機が迫るダライ・ラマを国外へ脱出させる必要に迫られ、ダライ・ラマはインドへ一時避難することに・・

 事態の打開を図りたいチベット国民議会は、国連に中国による侵略の事実を伝え、国連軍による侵略阻止を求めますが、国連は動かず、中国の侵略を非難する内容の声明文を出しただけで終わります。国連が動かないとなると自分達でなんとかしなければなりません。

 チベット政府は1951年、チベットの意見を述べ、中国の見解を聞く為に代表団を北京に派遣しますが、待っていたのは強制的に協定を結ばせようとする中国代表団でした。
 チベット側代表には協定を結ぶ権限が政府から与えられておらず、これを拒否しますが、この場で協定にサインしなければチベットを即時侵攻するという恫喝を受け、代表団は苦しい立場に追いやられます。
中国側の代表は、侮辱的な言葉を浴びせ、暴力をほのめかし、囚人同様の拘束をチベット側代表に行い、議論さえ許さず、チベット政府に連絡を取ることも許さない。まさにインドが心配した強制的な交渉の場を作ったのでした。

 代表団にこの『協定』に同意させ、印璽を捺印させてしまえば良いと考えた中国側代表は、権限のないチベット代表団が印璽を持参していない事を見越して、あらかじめニセの印璽を用意していました。
この場で署名しなければ、即刻侵攻するという中国側の恫喝に屈する形で、チベット側代表団はこの『協定』に署名してしまい、中国側は用意したニセの印璽を捺印して協定を結んだ事にしてしまいます。
 協定は17か条からなっており、チベットの外交権を中国に譲渡し、中国軍のチベット入りを許可する規定があり、事実上の中国傘下に置かれる内容となっており、独立国チベットに著しく不利な条件でした。

 偽りの協定を結んだ中国側は3日後、共産主義者お得意のプロパガンダ放送を行い、『チベットの平和的開放』のための協定が結ばれたと大々的に宣伝。協定締結の報を聞いたチベット政府は当然驚きます。代表団には全権を与えておらず、署名捺印する権限など与えてなかったのにもかかわらず協定が締結されたなんて、まさに寝耳に水。
即刻、代表団に連絡を取り、事の次第の説明を求めますが、ここからの中国はまさに電光石火で事態を進めていきます。

 チベット政府から叱責と説明を求めるメッセージが届き、北京に残っていた代表団は電報で返信します。その内容は、すでに中国側代表の張将軍がダライ・ラマに会うべく、インド経由で避難先であるドモに向かっているという事と共に、チベット側代表団もラサに戻ることを伝えてきたのでした。
 
 一時避難していたダライ・ラマは、この報を受けてラサに戻る決意をします。1951年8月にラサに戻ったダライ・ラマは、この一方的な内容の協定を、中国と再交渉してマシなものにしようと考えますが・・

 翌月、王司令官率いる人民解放軍2千名がラサに到着、続いて張将軍率いる2万の軍勢もラサ入り。外部の帝国主義者からの開放を謳った人民軍でしたが、外国人は当時たったの6名しかおらず、いったい誰からの開放なのかと問い詰めてみたいですが、これはただのお題目。
 駐屯する人民軍兵士の食糧などの調達をチベット側に要求し、自給自足で慎ましく暮らしてきたチベットには、要求に答える十分な食糧などなく、経済はあっという間に破綻し、国民は飢餓の淵に立たされることに。
 その間にも着々とチベット主要都市の占領を実行し、全土を掌握した人民軍は、さらにダライ・ラマ以下、チベット政府に圧力を強めていきます。
 中国の横暴に怒ったチベットの人々は、不当に占領している人民軍に対して撤退要求を出しますが、中国は2人の国務相を、首謀者であり帝国主義の手先と決めつけ、撤退運動の先頭に立っていたルカンワの解任をダライ・ラマに要求します。

 この要求をダライ・ラマは呑んでしまいます。その理由として

「私は中国に対して立ちあがったルカンワを大いに賞賛する。しかし私は彼をそのまま国務相の地位に留めるか、中国の要求に屈して解任するかの決定を下さねばならなかった」

「中国当局に反対しその怒りを買ったところで……結局はさらなる暴虐と圧制、人民の怒りという悪循環を招くだけであっただろうから」

と、難しい決断を迫られ、これ以上国民が殺されるのはたくさんだと思われたのでしょう。為政者として苦渋の決断であったとおもいます。こうして、ニセの協定も実質拒否する事が出来なくなり、中国のチベット侵略は完成する事に。

 1959年ダライ・ラマはインドへ亡命し、自由に発言できる機会を得て、ニセの協定を正式に拒否しますが、既にチベット内の実権は無く、チベットの人々は受難の時代を生きていく事となります。

 さて、ここまでかなり長いエントリーとなってしまいました。
チベットについての知識があまり無かったこともあって、当初2回のエントリーでまとめようと思っていたのですが、あまりに大きな問題を抱えるチベット問題を端折る訳にはいかず、この辺で区切らせて頂き、次回のエントリーでも引き続きチベット問題を扱っていきたいと思います。

 分かっていたつもりでしたが、中国のやり方というのは、吐き気がするほど姑息で汚いですね。このような国に目をつけられたチベットは不運であったというほかありません。チベットを占領する過程、そして現在まで続く中国によるチベット弾圧の歴史も目を覆いたくなる程、過酷で悲惨です。
中国という、実際に現在進行中の侵略をしている国が隣にあるということを改めて認識すると共に、話の通じない武力頼りの国と相対するには、自衛の手段をきちんと構築しなければならないと強く感じました。
 
 それにしても、このような中国の膨張主義の危険性をマスコミや外務省が、もっと早く日本国民に知らせていたら、改憲の議論は進んでいたと思います。 チベットが侵略された1950年当時、日本はGHQの占領を受け、朝鮮半島では戦争が始まり、この問題が国民的議論にならなかったのは仕方ないとしても、現在まで続いている不当な占領に関して、社会の木鐸を自認するマスコミが報道しないのは益々解せません。
 昨日に引き続きまして マスコミはもっと中国の真実の姿を国民の前に明らかにして見せるべきだ! 
取り乱しました(笑)では、また明日。


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チベット問題 日本マスコミが伝えない中国の真実 1
 今日はあまり日本で話題になることの無い、チベットについて書いていきたいと思います。
朝からネットを巡回していた所、気になるニュースを発見しました。
 国連によるパンチェン・ラマ接見要求、中国、再度拒否(大紀元より以下引用)

【大紀元日本9月23日】国連児童権利委員会は21日、中国当局に対し、北京に軟禁されているチベットのパンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年(16)との単独接見を要求したが、中国政府はこれを拒否した。中央社が伝えた。

 パンチェン・ラマ11世は、6歳の時、父母の同意なくチベットから北京に連行されて以来、10年にわたり中国共産党政府による軟禁状態にあり、未成年の長期にわたる軟禁に非難が高まっている。

 国連独立専門家委員会委員長のディオーク氏によれば、国連は、長期にわたり、中国当局に対しパンチェン・ラマ11世との接見を要求し続けてきたが、中国政府は頑なにこれを拒否。今回の接見要求に応じ、国際社会に「中国政府が児童の福祉を重視している」ことを示すべきとしている。中国側が独立専門委員会に行った釈明によれば、接見拒否は本人及び家族の意向であるとしているが、世界の人権団体多くのは、「ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は、世界最年少の政治犯」と認識している。

 亡命中のチベット最高指導者のダライ・ラマ14世は、1995年5月、ゲンドゥン少年は1989年に死去したチベット宗教界のNO.2であるパンチェン・ラマ10世の生まれ変わりと宣言した。本来ゲンドゥン少年はチベットに留まるべきだが、チベットでは、その肖像を掲げることも許されず、また、この10年間、中国政府は別の少年をパンチェン・ラマ11世として擁立している。


 普段、あまりチベットについての情報を得ることが無い日本で、このニュースを見ただけではピンと来ない人も多いかと思います。
実は私もその一人でして、いつも巡回するブログで中国の人権問題について紹介しておられる記事の引用元に、この大紀元という新聞社へのリンクが張ってあったので辿ってみた所、この記事の他にも何本かチベット関連の記事がありました。
 いずれもチベットの人権に関する内容で、読んでみると、そういえば中国ってチベットを弾圧して国王やえらいお坊さんなんかが亡命してたよなあ・・と、断片的な記憶が、霧がかかったように思い出される程度だったのですが、中国の日本に対する一連の挑発行動にイライラさせられっぱなしの私は(笑)、チベット問題について調べてみる事にしました。

 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HPによると、チベットの歴史は神話時代を経て、紀元前約200年頃に初代チベット王が現れ、7世紀頃に統一王朝が成立。(吐蕃王朝。但し、中国側からの呼称)8世紀、9世紀と勢力を拡大し、当時大帝国であった中国の唐と肩を並べる強国になる。
9世紀には、現在のチベットのイメージとも言える仏教指導者による国政が実現するも、国内の対立を引き起こし、王朝は分裂。吐蕃王朝は滅亡。
 
 13世紀には、当時ヨーロッパまで勢力を伸ばしたモンゴル帝国の脅威にチベットも例外なくされされ支配下に置かれるが、チンギスハーンの孫であるゴダンハーンがチベットの高僧を自らの幕舎に招き、モンゴルが仏教を受け入れる素地を作る。
 後を受けたフビライハーンは仏教を国教とし、パクパを導師と仰ぎ、いわゆる『寺と檀家の関係』を築き上げ、チベット全土に及ぶ政治的権威をを与えて、宗教的指導者(以下ラマと書きます)がモンゴル皇帝にチベット統治を保証してもらい、ラマがモンゴル帝国の統治が正当であることを皇帝に保証するといった、相互依存の関係を構築する。(なぜ、現在のモンゴルにチベット仏教を信仰する人が多いのか疑問だったのですが、この辺に起源があったのですね。)

 その後モンゴル族の王朝であった元は、漢族の王朝である明に滅ぼされ、それと同時にチベットと中国の関係も希薄になっていく。
また、この時代にモンゴル族のグシハーンがチベット内に王朝を樹立し、熱心なダライラマ信者であった王朝の支配者により、チベット仏教界で宗派を超えた宗教、政治の最高権威としてダライラマの地位は確立される。

 明の内乱に乗じて満州族は北京に清王朝を樹立、モンゴル族と同じ北方遊牧民族である満州族は、チベットと『寺と檀家の関係』を結び、互いの権威を保証する。
 チベットがネパールに侵略されたり、内乱が起きた際、清は軍を派遣してこれを撃退するが、4度目のチベット側の派兵要請に業を煮やした清は、これ以上清の軍隊に出動要請が無いようにと、チベット内政に一定の発言力を確保しようと布告を発し、受け入れられなければ、軍隊と大使を撤退させると恫喝するも、チベットの宗教指導者の選定方法まで言及した内容をチベット側は呑めるはずは無く、布告の内容を換骨奪胎した形を取り、この後チベットと清の関係は悪化する。

 19世紀に入り、西洋列強のアジア侵略によって清の力は衰退し、チベットはネパールや英領インドなどからの侵略を受けるが、清は国内を統治するのに精一杯でチベットを守ることが出来ず、チベットにおける清の地位は低下していく。

 1908年、チベットは清からかつて無い大規模な侵攻を受け、『寺と檀家の関係』は破綻する。英国の影響をチベット内から排除する目的で派兵されたはずの清の軍隊は、自らの主権を確立するためにダライラマを圧迫し、当時のダライラマ13世は隣国インドに亡命を余儀なくされた。

 1910年、清はダライラマの廃位を図ると、ダライラマは『寺と檀家の関係』終結を宣言。以後、清の侵略に抵抗する運動が激しくなり、1912年清朝滅亡を受けて抵抗運動は成功し、占領軍を降伏させ、ラサに戻ったダライラマは停戦と清軍の完全撤退を確認し、1913年チベットは独立を宣言。

 と、ここまで一気にチベットの近代までの歴史をかなり大雑把ではありますが、紹介してまいりました。古代においてはもちろん、元、清といった現在の中国からみれば外来政権、漢民族の明などの時代において完全な中国の一地域になったことは一度も無く、比較的関係の深かったモンゴル族、満州族の王朝なども、『寺と檀家の関係』を通じて互いの権威を保証する関係ではあっても、チベットが独立的な地位を保っていた事を示しています。

 清朝滅亡後、中国国内は群雄割拠する内乱の時代へと突入し、その中で力をもった『中華民国』政府がチベットは中国の一部とした宣言をするが、跋扈する軍閥や、日本軍への対応に追われ、直接統治することはなく、国共内戦を経た1950年、勝利を得た『中華人民共和国』政府は、中華民国政府のチベットは中国の一部という宣言を踏襲し、チベット全土の併合を目指し軍事行動を起こすことになります。

 チベット併合に関する当時の中国の行動は、ブラピが主演した映画『セブンイヤーズ イン チベット』の中で生々しく描かれており、公開当時この映画をみた私は、かなりの衝撃を受けた記憶があります。
しかし、その後チベット問題が日本国内で報道されることはあまりなく、私の記憶の中でチベット問題は薄れていったのです。

 中国の重大な人権侵害があるにも関わらず、日本のマスコミはこの問題を扱う事はタブーとしている印象があります。チベット問題を日本のマスコミがタブー視している理由に、中国政府とマスコミ各社の間に、ある密約があるからといわれています。

 それは、中国(この場合は共産党政権)に都合の悪い報道をしたマスコミは中国国内から追放するという内容。この様な恫喝に日本のマスコミは屈してしまったのです。日頃から言論の自由を盾に、政府要人や問題を起こした企業などに対して、情報の公開をしろ!説明責任がある!と、あること無い事を暴き立てるのに、中国の事になると途端に中国政府の見解をそのまま垂れ流し、中国共産党が隠したい事は徹底して報道しないという異常な事態を引き起こしたのです。

 このエントリーを書くに当たって、Googleのニュース検索をしてみたのですが、日本マスコミの報道規制はここまで徹底されているのかと背筋が寒くなりました。
まず、米国版のニュース検索で“Tibet human rights”と検索したところ、488件のHIT。次に“Tibet problem”は248件とかなりの数の記事があります。
対して、日本版のニュース検索で“チベット 人権”と検索してみましたら、なんとゼロ件。続いて、“チベット問題”で検索すると、中国の新華社通信日本語版の記事が1件見つかるだけでした・・(しかもダライラマ法王を批判する内容・・)
単純に“チベット”と検索してみても、比較的中国に批判的な記事は産経新聞の2件のみ。たくさんの記事がヒットしますが、目立つのは中国の報道機関、大使館が出している記事で、日本のマスコミはチベットに関連する記事自体をあまり書いてない様子。

 ネットが普及し、世界の情報を知るにあたってマスコミだけに頼る必要は無くなったとはいえ、貴重な情報源であることに変わりはありません。私は、たまに海外マスコミなどのサイトも覘きますが、読むのに時間がかかることもあって、日本語で読むことが出来るサイト中心に情報を集めることが多く、チベット問題に触れる機会がほとんどありませんでした。

 今回のエントリーを書いたのがきっかけで、この問題に興味を持てましたが、現在進行中の中国によるチベット侵略の事実を、日本のマスコミはもっと報道すべきです。
今年、中国の反日行動が激化した際、日本のマスコミは大使館や日本料理店などへの攻撃の被害を伝えましたが、一方でデモに参加している中国人の声と言って、中国政府の主張を垂れ流していました。
 普通に考えれば、中国政府との間に異常な密約がある日本のマスコミが、中国国内での暴動ともいえる反日デモを、あれだけ詳しく報道した事も何か裏があるに違いないと勘繰ってしまいます。

 日本のマスコミが、自らの存在理由である言論の自由を盾にした報道を相手によって暴き立てたり、逆に情報を隠蔽して国民の知る権利を侵害するのなら、報道機関の看板を下ろして機関紙という名前に改めるべきだ!

 取り乱しました(笑)そんな日本のマスコミが伝えない、『中華人民共和国』のチベットに対する行動について、次回のエントリーで書きたいと思います。



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