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韓国 属国なんかじゃないやい!!
 我々は5000年にも及ぶ独自の歴史を持ち、大国に挟まれつつも長い間独立を保ってきた国である・・このような与太を飛ばしている、ちょっとカワイソウな国が日本の隣にあります。

 実際は長ーい間、中華冊封体制に組み込まれていた属国だったわけですが、やっとこさ『独立国』となった近年、自国の真の歴史を眺めてみると、あまりに惨めであるためか、彼らは歴史を『糊塗』しまくっております。

 しかし糊塗したものはいつか剥げ落ちるわけでして、説明の出来ない事実なんかが時に突きつけられます。そういった場合どうするのかと言いますと、『幸せ回路』を発動して事実を曲げにかかります。例えばこんな。(朝鮮日報から以下引用※韓国語)

朝鮮王朝16代王、仁祖以後11人の王様が清から受けた諡号(帝王や宰相が死んだ後、功徳をほめたたえて付ける名前)がすべて明らかになった。これらの諡号はこれまで公式記録から徹底的に隠されていた。

李迎春(イ・ヨンジュン)国史編纂委員会研究官は14日午前11時、ソウル歴史博物館講堂で歴史実学回(会長ユン・ソクヒョ)主催で開かれる学術発表会「朝鮮後期外交史の検討」のため、主催側に送った論文「金指南の通文館志と中国との関係」を通じてこのような事実を明らかにした。

「通文館誌」は史官だった金指南・金慶門父子によって1708年に編纂され、1720年刊行された後、19世紀まで17回にわたって増補・重版された外交資料集で、清・日本との外交関係の格式と沿革、略史を記録している。今まで、この本に対しては主に板本・版本のような書誌学的研究が行われただけで、その内容が詳らかに分析することはできなかった

ところで今回の研究でこの本の‘紀年’編に朝鮮が清から請じて受けた各王らの諡号をすべて記録していたことが明らかになった。

▲16代仁祖(インジョ・1623~1649)は‘荘穆王’▲17代孝宗(ヒョジョン・1649~1659)は‘忠宣王’▲18代顕宗(ヒョンジョン・1659~1674)は‘荘恪王’▲19代粛宗(スクジョン・1674~1720)は‘僖順王’▲20代景宗(キョンジョン・1720~1724)は‘恪恭王’▲21代英祖(ヨンジョ・1724~1776)は‘荘順王’▲22代正祖(チョンジョ・1776~1800)は‘恭宣王’▲23代純祖(スンジョ・1800~1834)は‘宣恪王’▲純祖の王世子で死後に王に追尊された翼宗は‘康穆王’▲24代憲宗(ホンジョン・1834~1849)は‘荘肅王’▲25代哲宗(チョルジョン・1849~1863)は‘忠敬王’だった。

諡号に‘忠’‘順’‘恪’‘恭’などの字がよく使われたことで、朝鮮王たちが順従になることを望んだ清の希望事項と読める。しかし、この諡号は「朝鮮王朝実録」や国王たちの行状(死んだ人が一生の間に暮して来た事を書いた文)、陵誌文(王や王妃の生没日課行績などを書いた文)など、ほとんどすべての公式記録から大部分影をひそめ、外交文書以外には一切使われなかった。

明から受けた諡号を‘太祖康献大王’‘世宗荘憲大王’のように記録した朝鮮初期とは完全に変わったのだ。実録にも、清に諡号を請じて受けた事実だけ記録しただけ、受けた諡号が何だったかは記録しなかったし‘肅宗’のような片鱗が引用された外交文書に伝えるだけだ。李迎春研究官は「諡号を受けただけで、記録はもちろん挙論さえしなかっただろう」と述べた。

どうしてだろうか?‘蛮夷国’だと思った清の諡号を恥ずかしく思ったからだ。言い換えれば朝貢・冊封の‘事大関係’というものは、外交的な形式に過ぎなかったということだ。表で恭しいふりをした朝鮮人たちの意識の中には、清に対する反発が堅固に席を占めていたし、受けた諡号を表立って使わなくても良いだけ、朝鮮王朝はほとんど完全な政治的自主権を持っていたということだ


 スゴイ結論だ・・国内で諡号を使っていなかったという『だけ』で、ほとんど完全な政治的自主権を持っていたとはこれ如何に(笑)?国旗に堂々と『大清国属高麗(参照:エンコリ』なんて書いてあったのにねえ。


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