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朝鮮半島赤化統一へのカウントダウン 歴史は繰り返すのか 2
 一つ下のエントリーからの続きになります。
 昨日は、極東アジアの危険要因の元凶北朝鮮に擦り寄る韓国の現状について少し触れ、対北アレルギーが極端に少なくなった世代、勢力を作り出した原因である『北朝鮮の意向を受けた勢力』が、今起こりつつある韓国の赤化統一の危険性を高めているという事をご紹介しました。

 本日は、『北朝鮮の意向を受けた勢力』(以下、親北派とします)がどの様に韓国国内に浸透し、勢力を拡大していったか、1945年以降から朝鮮戦争、独裁政権、文民大統領誕生による民主化前夜までの韓国の政治体制の変移、民主化の過程などを紹介しながら動きを追っていきたいと思います。

 1945年、敗戦に終わった米国との戦争で、当時日本の一部であった朝鮮半島は、北半分がソ連の、南半分が米国の影響下におかれました。ソ連軍大尉であった金日成と、上海で細々と亡命政府を運営していた李承晩は、金日成はソ連、李承晩は米国を後ろ盾に、朝鮮半島独立に向けて激しい主導権争いを行い、当時米ソは朝鮮半島に統一政府を作るべく両者に話し合いの場を設けますが、協議は決裂し、南に『大韓民国』、北に『朝鮮民主主義人民共和国』(長いな・・)が設立され、38度線を境に国家が分断される事態となったのでした。

 1948年、武力統一を求める金日成に対して、米国との直接対決を避けたいソ連は朝鮮半島から軍を撤退させ、それを受けた米国も翌年軍政をとき、司令部を半島から撤収。この年に中国では米国が支援してきた国民党が劣勢となり、共産党が勝利して『中華人民共和国』が成立したため、米国のアジアにおける防衛ラインをフィリピン~日本~アリューシャン列島まで後退させます。

 これを好機と捉えた金日成率いる北朝鮮は1950年に『南進』を開始し、武力統一を目指して一気に攻め込みます。突然の北朝鮮による侵攻に驚いた米軍は、ソ連が欠席中の国連安全保障理事会で『北朝鮮弾劾決議』を採択し、米国を中心とした国連軍を結成しますが、勢いに乗る北朝鮮軍はわずか3日でソウルを陥落させ、韓国政府はソウルの南にある水原に避難。そのまま統一されるかと思われたものの、北朝鮮軍はなぜか3日間進軍を停止。

 この間に日本に駐留する米軍が韓国に上陸し、反転攻勢に出ますが、準備不足が否めない米軍は各地で敗北。米軍と韓国軍は総崩れとなり、南端の釜山まで追い詰められることに。事態の打開を図りたい米軍は釜山で必至に防戦して援軍を待ち、国連軍を結成したマッカーサー将軍は苦戦しながらも仁川に上陸し、一気にソウル奪還に向けて進軍。38度線まで押し返す事に成功したのでした。

 少し話がそれますが、韓国軍が釜山まで敗走を続ける中、韓国政府は『保導連盟』という組織に登録していた人々を大量に殺害します。この『保導連盟』とは、当時、韓国国内にいた元『抗日パルチザン』に参加したゲリラ兵士や、共産主義勢力に何らかの影響を受けていた人々に対して、『保導連盟』に登録して思想改造を受ければ処罰しないと宣伝し、38度線より南に住む共産主義者、あるいはシンパシーを感じていた人々は『反共』である李政権下における弾圧を恐れて登録します。ところが、これによって『親共』勢力の名簿を手に入れた韓国政府は、敗走のドサクサに紛れてこれらの人々を政治犯として逮捕、拘束し、収容所にて殺戮します。

 この弾圧で身内を殺されたり、酷い目にあった人たちの『反共政府』に対する恨みは凄まじいものがあったと思います。現在から見れば考えられない事ですが、当時は共産主義国であるソ連が計画経済を導入し、お得意のプロパガンダで理想郷を描いてみせた事もあり、貧しい人達や、抑圧された人達にとって憧れの思想であったようで、当然朝鮮半島に住む人々にとっても例外では無く、さらに、重工業を中心に工業が盛んで、インフラの整っていたのは北半分の地域であり、南半分の地域は、今の韓国から想像もつかない程の貧しい地域でした。
 確信犯的な共産主義者だけならともかく、一種のブームで被れた人も多かったと思いますが、ゴリゴリの『反共』であった李大統領は徹底的に弾圧し、遺恨を残す結果となりました。

 話を戻します。反撃に成功した韓国は、38度線を越えて統一を果たすチャンスが来たと考え、国連に承認を受けて越境。対する北朝鮮は中国を統一した中華人民共和国に参戦を要請し、受けた周恩来は一応義勇軍の形をとった軍を派遣。前線だけで20万、後方に100万人といわれた中国の大軍と国連軍が全面的に対決する事になりました。
 国連軍は一時、北朝鮮の首都平壌を陥落させる事に成功しますが、中国の本格参戦で戦局は一進一退。当時の最新鋭機MIG-15を投入して制空権を握った中国北朝鮮連合軍は平壌を奪還、続いて再度ソウルを奪回。劣勢に立った国連軍でしたが、なんとか立て直してソウルを取り返し、38度線まで押し返します。

 倒しても、倒しても一向に減る気配の無い中国軍100万にマッカーサー将軍は業を煮やし、北朝鮮への補給線を絶つために米国政府に核兵器も含めた満州爆撃を進言しますが、トルーマン大統領はこれを拒否し、マッカーサー将軍を解任。こうして膠着状態が続き、ソ連提案による停戦会議が数度にわたって開催され、双方譲らず交渉は難航しますが、1953年、休戦協定が国連軍と中国北朝鮮連合軍の間で結ばれ、3年に及んだ朝鮮戦争は休戦という形で終り、北緯38度線付近の軍事境界線が両国にとっての事実上の国境となりました。(ちなみに、李大統領は休戦協定を不服として欠席)

 こうして38度線を境に国が分断された形になった訳ですが、その後南北双方が武力統一を主張しあった結果、現在までその状況は変わりません。では、ここから朝鮮戦争後の韓国における政治体制の変移を見て行きましょう。

 休戦協定締結の会合に条件を不服として欠席をした李大統領は、武力による半島統一を掲げ、『保導連盟』弾圧後も『反共政策』を強力に推進し、韓国国内において共産主義者の一掃に乗り出しますが、自身の権力を強化する過程で邪魔になる者に対して『北のスパイ』、『親共産主義者』と、実際には共産主義者ではない者に対してもレッテルをはって葬ったため、多方面から恨みを持たれる事になります。この『北のスパイ』というレッテルは、『反日』と並ぶ、邪魔者を排除する絶好の切り札となって、その後の韓国に大きな弊害をもたらす事になるのですが、その原因を作ったのは元祖『反日、反北』の李大統領と言えるでしょう。
 
 政敵を葬った李大統領は、憲法改正を行い、選挙介入までして『終身大統領』となり、自由を愛する民主主義者では無く、ただの権威主義的な独裁者であることを証明します。絶対的な権力を掌握した李大統領とその取り巻きは、企業との癒着などで腐敗し、米国からの援助なしには成立しない経済を放置してやりたい放題。『こんな状況なら北朝鮮に統一された方が良かった』と、思う人間が出てくるのは当然であったかも知れません。

 腐敗し、大統領選挙で大規模な不正を行った李大統領に国民の怒りはついに爆発します。各地で学生を中心としたデモや暴動が頻発し、大統領への糾弾が高まり、自宅を包囲された李大統領は辞任を表明し、哀れハワイへと亡命する事となりました。
 朝鮮戦争の結果、特に南半分の地域は壊滅的な打撃を受け、休戦後も大統領一派による腐敗と怠慢で復興の遅れていた韓国に対して、元々インフラが整い、自力のある北朝鮮による統一を本気で望んでいた人達が多かったこの時代に『親北派』の種は芽を出したと考えられます。

 李大統領亡命後、政治制度を議院内閣制に移行させた韓国。大統領の権限は抑えられたものになり、首相の権力が強くなります。張勉という人が首相に就任しますが、李大統領を追放した事で勢いを得た学生達は、板門店にて北朝鮮の学生達と会談するためにデモを繰り広げます。
その数は10万人とも言われており、かなりの勢力を誇っていたと思われます。文民出身の張首相にはこの運動が止められず、『赤化統一』の危険あり、と急遽軍事クーデターを起こして実権を掌握したのが朴少将(後の大統領)率いる『軍事革命委員会』のメンバーでした。

 政権を奪取した『軍事革命委員会』は『国家再建最高会議』と名称を変更し、治安対策、旧政権下における腐敗の一掃、経済再興などを実行。同時期に韓国の諜報機関として有名なKCIAを設立し、頻発するデモや暴動を武力で鎮圧。朴少将は李政権下で『南朝鮮労働党』という親共組織に加わっていたため、デモを主催したり、暴動を扇動したりする『親北派』をよく知っていたといわれ、かなりのスピードで『親北』勢力は力を失っていくことになります。

 軍を退役した朴少将は、1963年に大統領選に立候補し、当選。その後は日本でも良く知られる開発独裁による経済復興に成功し、当時世界最貧国のひとつであった韓国を救う一方、軍事力を背景にした強権的な政治によって弾圧された人も多く、評価は二分されていますが、日本統治時代に内地の陸軍士官学校を卒業し、日本を良く知る朴大統領は、李大統領時代とは打って変わり、国交正常化を成し、日本から莫大な援助金を引き出して『漢江の奇跡』と呼ばれた驚異的な経済成長を成し遂げ、今日の豊かな韓国があるのはこの大統領のおかげであると言っても良いでしょう。

 こうして豊かな国へと成長していった韓国内で、貧しさからくる北朝鮮へのシンパシーは消滅し、『親北派』も力を失って行くと思われたのですが、朴大統領に権力欲の魔力が襲い掛かります。前政権とは比べ物にならないほど清廉であった大統領でしたが、権力に対する執着は強くなり、民主化要求に運動方針を変えた『親北派』への弾圧はもちろん、自分に意見する与党議員や側近まで追放し、戒厳令を敷いて政治活動の一切を禁止するといった、完全独裁体制に移行します。

 禁止されれば運動が先鋭化するのはどこの国でも同じで、一向に民主化に向かう気配が無い朴政権末期において、『親北派』は力を持ち直し、各地で学生を中心としたデモや暴動が頻発し、武力で鎮圧→暴動が激化→民主化要求の高まりという悪循環に陥り、この後、光州事件で頂点を迎える民主化要求運動へと続きます。一旦は成功したかに見えた赤化統一の危険の排除は、強まる独裁への反発として、より強力に蘇るといった皮肉な結果になり、1979年、朴大統領は側近のKCIA部長によって射殺されました。

 さて、かなり長くなりましたので、この辺で纏めに入りたいと思います。豊かさを求めた朝鮮戦争直後の北への憧れと、豊かさをある程度獲得した後の独裁体制の崩壊を願う民主化への憧れ。どちらも抑圧された人にとっては喉から手の出るほど欲しいものです。共産主義勢力による浸透は、この様な不満を巧みに利用し、世間をあまり知らない学生やインテリ層に理想論を説き、北朝鮮は地上の楽園であると宣伝することによって貧しいものには豊かさが得られると言い、北朝鮮が半島を統一すれば同時に民主的な世界がやってくると嘘をついて組織し、浸透してきました。

 ソ連や中国も同じでしたが、学生を扇動してデモを起こさせ、インテリ層におよそ現実的でない『主体思想』などを説いて心服させ、長い時間をかけて政治、マスコミ、教職者などの社会に影響力の大きい職業に就かせることによってジワジワと社会の変容を待つという迂遠な戦略も彼らの手の内であり、武力による解決、テロやゲリラによるかく乱、といった直接的な手法とは違い、気が遠くなる程時間がかかるこの戦略は、実は一番恐ろしいものであり、日本も一時期(現在も影響は残っていますが・・)共産主義や社会主義を礼賛する政治家やマスコミ、教職員組合を中心とする教職者が大きな力を持っていました。

 直接的な手法による赤化統一が難しい現在、この迂遠な手法による戦略がもっとも韓国内で先鋭化しており、『反共』を言わない代わりに『反日』を手段とした韓国の保守層の切り崩しが行われていると考えられます。韓国の重大な欠陥として、どの層を取ってみても『親日』はありえず、『反日』を理由とした北朝鮮による工作が明らかであっても、それを排除する事は事実上不可能で、各界に『親北派』が浸透することを防ぐ事ができないという、とんでもない状況が現在出現しているのだと思います。


 『反日』にかまけて盲目になっていると、近い将来本当に朝鮮半島のすべては赤くなってしまうぞ!



 ここまで読んで頂いた方、お疲れ様でした。このエントリーを書く予定時間を大幅に超えてしまった為に、私も疲れました・・(笑)明日以降、光州事件から現在までの韓国について書こうと思っていますので、これに懲りずにまたご訪問ください。



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