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チベット問題 日本マスコミが伝えない中国の真実 3
 前回、前々回と2回にわたって書いてまいりましたチベット問題。
今回のエントリーでは、中国によるチベット侵略からチベット亡国への過程、中国によって引き起こされた様々な問題について紹介すると共に、チベットを鏡として、日本という国が今後どの様な方向に向かっていくべきか考えていきたいと思います。

 1950年、中国共産党率いる人民解放軍は、突然チベットに侵攻。チベットは周辺諸国、国連などに救済を求めますが、国際社会は中国を非難する声明を発しただけで、中国の横暴を止めることは出来なかった。 国際社会は何も出来ないと踏んだ中国は翌年、チベット政府代表団を招いた席で、17か条からなる『協定』(全文)を、署名か即時侵攻かといった恫喝で、署名する権限を持たないチベット側に強要し、ニセの印璽を用意して捺印するという卑劣な手段で結ばせ、チベット国内に勢力を伸ばす橋頭堡を築いたのでした。

 協定を結んだ事にした中国は、電光石火でチベットに進軍し、ラサをはじめ、チベットの主要都市を占領。駐屯する人民軍の莫大な食糧等の補給をチベット側に要求し、経済は破綻、国民は飢餓寸前に。一時インドに避難していたダライ・ラマ法王は、事態の打開を図るため帰国しますが、解放者の皮を被った侵略者、人民解放軍はチベットを中国に併呑する準備を強引に進めていきます。

 次々に要求を高める人民解放軍に国民の怒りは爆発し、チベット撤退を求める運動が起こりますが、中国は首謀者の罷免をダライ・ラマ法王に要求し、容れられない場合は武力解決を図ると迫ります。これ以上、国民が死んだり、苦しんだりする姿を見たくなかった法王は、この要求を呑み、国務相二人を更迭。その後も喉元に突きつけられた武力による圧力に耐え切れず、中国によるチベットの統治は完成に向かっていく事に・・。

 ダライ・ラマ法王に人事の要求をねじ込む事に成功した中国は、1954年、第1回全人代に法王を招待し、毛沢東以下、中国共産党の要人、ソ連の指導者、ネパールの首相ネルーなどが出席する中、法王に自由な発言を許さず、中国共産党が行った『解放』の象徴として利用し、チベットが中国傘下に入った事を、内外に印象付けることに成功します。

 北京で屈辱的な扱いを受けた法王を、さらに難題が待ち受けていました。 ラサに戻る直前に『西蔵自治区準備委員会』設立の提案がなされ、翌年、準備委員会を発足させる為、北京から副総理陳元帥が派遣された際、チベット政府要人はもちろん、ダライ・ラマ法王も出迎えに行く事を強要され、ここに国家元首としての尊厳は、踏みにじられることになりました。

 この『西蔵自治区準備委員会』には、中国側の委員と合わせて、チベット各地の代表も委員になれるという建前でしたが、中国政府の承認を受けなければならず、結局、中国側の息がかかった人物ばかりが委員となり、チベット側に極めて不利な形で発足する事となる。

 こうしてスタートした準備委員会でしたが、チベット側の意見は封殺され、唯一の機能として、中国政府が決定した事柄を承認するのみという、なんの決定権もない、ただのお飾りであったのです。おまけに、委員会主任として、ダライ・ラマ法王がチベット国民への権威付けに利用される事になり、チベット側は自分達の国の政策が、目の前で外国人によって決定されていく事を指をくわえて見守ることしか出来ませんでした。

 チベットは西蔵、青海、四川、甘粛、雲南の州や県に分割され、ダライ・ラマが統治出来るはずだった西蔵自治区も、上記の通り無視されるという、チベット国民を絶望のどん底に追いやった中国に、ついに反撃の狼煙を上げるチベット人達が出てきます。

 1956年、東チベットのカム地方、東北部のアムド地方の人々は一斉に武装蜂起。一時的に中国の軍事警察機構を一掃しますが、激怒した中国政府は反撃を開始し、制圧時にすさまじい弾圧と大虐殺を実行。戦火を逃れたチベット人や、武装蜂起した兵士達は、ダライ・ラマ法王のいる『西蔵』へ逃げ込み、兵士達は、米国CIAの支援を受けながら『西蔵』各地でゲリラ戦を展開しますが、ここでも中国との関係悪化を恐れたチベット政府は、ゲリラ兵達の支援を断り、抵抗は小規模な局地的戦闘で終わる事に。

 ゲリラ兵達の要求を断り、中国との関係悪化を回避しようとしたチベット政府でしたが、1959年に最悪の状況を迎える事になります。人民軍駐屯地に、観劇のため招待されたダライ・ラマ法王に、観劇には丸腰の従者数名で来るようにと通達した事が、法王暗殺の噂となって広まり、法王所在の夏の宮殿周辺にチベット人数万人が集結。中国当局は解散命令の後、チベット人達に砲撃を開始し、国内は大混乱に陥り、ダライ・ラマ法王と、それに従うチベット人、約8万人がインドへ亡命するという結果となりました。

 さて、ここまで一気に中国のチベット侵略と、チベットという国家がどのように無くなっていったのかを書いてまいりました。
この後、インドに亡命したダライ・ラマ法王は、インド国境を越える直前にチベット亡命政府の設立を宣言しますが、チベットを実質支配している中国に対して、有効な手立てを打つことはなかなか難しいようです。現在も続くチベット人への政治、思想、宗教的な弾圧によって、約13万4千人の亡命チベット人が、海外での生活を余儀なくされています。

 私は、ダライ・ラマ法王の、宗教家として非暴力を貫き、慈悲と愛を説く姿勢を大変尊敬します。そして、中国という侵略国家に国を蹂躙され、弾圧、虐殺によって亡くなられたり、傷つけられたりしたチベットの人々に哀悼の念を抱くと共に、中国許すまじという気持ちを強く持ちました。
 
 科学技術が発達し、人や物の移動が容易になり、世界が狭くなった現在、かつて平和な仏教国であったチベットが、自衛の手段を持たなかったことを責めたり、嘆いたりするのは詮無いことだと思います。平穏で急激な変化の必要がなかったチベットにおいて、強大な力をむき出しにして襲ってくる中国を撃退するだけの自衛能力を持て!なんて無理な話です。

 翻って、わが国『日本』はどうでしょうか?
今から10年以上前までは、憲法9条があるから平和が保てているという話が、かなり説得力を持った説として国民の間に浸透していました。のちに、『空想的平和主義』と呼ばれるこの説は、日本の自衛体制を強化する議論が自民党などで始まると、『武器があるから戦争が起こる』や、『自衛隊があるから周辺国は脅威とみる。だから解体しろ!』といった珍説で煙に巻き、改憲も含めて、自衛に関する議論自体を封殺しようとする集団が、国会に大きな勢力を持っていた時代に唱えられたものでした。(今でも『希少動物』扱いで、いることはいますが(笑))

 戦後60年、日本の安全を守ってきたのは、紛れも無く米国の軍事力と自衛隊です。特に米国の核の傘に入っている以上、日本の周辺国は手出しできませんでした。この抑止力によって安全が担保されていることを無視して、『空想的平和主義』がもっと国民の間で浸透し、自衛隊解体、または、米軍の日本撤退が現実となっていたら・・考えるだけで恐ろしいですが、チベットがたどった道を、我々も歩む事になったかもしれません。

 最近、改憲の手続きを定める国民投票法案が次期国会に提出されるようで、改憲に向けた動きが活発化してきました。自衛権は国家の自然権だから、9条第2項は削除しないで解釈論で対応すべきだといった反論も必ず出てきます。しかし、解釈論に関しては、『神学論争』といわれるほど堂々巡りを繰り返し、一向に国の自衛に関する議論は進まなかった事をしっかりと記憶しておくべきだと思います。

 最後に、一連のチベットに関する問題をほとんど扱わない報道機関については、憤りを感じるばかりですが、チベットが中華人民共和国と関わった事によって国を失い、なぜ、国家元首が亡命するといった異常な事態に至ったのかという歴史を特集するだけで、『空想的平和主義』の残滓が残る日本人の目は覚めると思うのですが、どうでしょうか?

 今回のエントリーで、チベット問題を全て書いてしまおうと思っていたのですが、まだまだ書かないといけない事柄が多いので、次のエントリーでも引き続きチベット問題を扱います。では、また明日。



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