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チベット問題 日本メディアが伝えない中国の真実 2
 一つ下のエントリーからの続きになります。前回は、チベットの近代までの歴史、中国との関わりを簡単にご紹介し、日本のマスコミが中国に配慮して、チベット問題をほとんど扱わない事などを書きました。
本日は近代以降、チベットがたどってきた道、とりわけ中国との関係に焦点を当てて書いていきたいと思います。

 最初に、チベット問題を語る上で最も重要になるチベットの仏教界、政治の頂点に立つ『ダライ・ラマ』法王と、それに次ぐ仏教界の最高権威『パンチェン・ラマ』の関係について、簡単ではありますが紹介します。

 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HPより要約。

 ダライ・ラマとは、モンゴルの称号で『大海』を意味し、歴代の転生者は慈悲の菩薩観音の化身とされている。現在のダライ・ラマは14世となり、自作農家に誕生後、2歳で転生者の認定を受ける。

パンチェン・ラマとは、『偉大な学者』を意味し、歴代の転生者は阿弥陀仏の化身とされている。現在のパンチェン・ラマについては、複雑な事情が絡んでいるため、次のエントリーとさせて頂きます。

 このダライ・ラマとパンチェン・ラマが、チベットにおける文化、宗教、政治の最高権威で、ダライ・ラマがパンチェン・ラマの転生者を認定し、パンチェン・ラマがダライ・ラマの転生者を認定するという、相互認定の制度を、約600年間続けてきたようです。
また、この転生者捜索、認定までにはチベットの伝統に則った方法が取られます。

 さて、ここから本題に入っていきたいと思います。
近代以前、時には外国の勢力に侵略され、支配された事もあるチベットですが、国の核心ともいえる宗教に関する事は何人も侵すことは出来ませんでした。
 しかし、そこに最悪の敵が現れます。そう・・無宗教の共産主義者達、今の『中国共産党率いる中華人民共和国』です。

 1949年、日本軍撤退後の中国では、蒋介石率いる国民党軍と、毛沢東率いる共産軍(後の人民解放軍)が激突し、45年から続いた国共内戦は共産軍に軍配があがり、ここに『中華人民共和国』が成立します。

 国内を統一した共産党は、次のような宣言を放送する。

人民解放軍は、中国全土を解放せねばならない。チベット、新彊、海南島、台湾も例外ではない

 周辺地域への侵略の意図をむき出しにした共産党は、実際に行動に移す事になります。

 この宣言に驚愕したチベットは代表団を派遣し、中国と外交交渉を試みますが、中国側から二つの提案が出されました。その内容とは、チベットは国防を中国の所管にすること、チベットは中国の一部であることを認めることといった、端からチベットの独立など眼中に無く、当然チベット側はこれを拒否。外交交渉は暗礁に乗り上げる事に。
 
 翌年、中国共産党は人民解放軍を派遣し、東チベットの州都チャムドを4万の大軍で侵攻。守るチベット兵はわずか8千、抵抗むなしく敗退し、州知事は捕えられ、4千名の戦死者を出す。

 突然の中国のチベット侵略に隣国インドも驚き、次のような書簡を共産党本部に送っています。

中国政府がチベット侵略を命じた現在、平和的な話し合いなど望むべくもありません。チベットとしては、交渉が強制の場になるのではないかという心配が当然出てくると思われます。現在の世界情勢からみても、人民解放軍によるチベット占領は、愚行としか映らないでありましょう。
また、わが国の外務省が慎重に検討しましたところでも、貴国の利益にならないのではないかと危惧いたします。

 

 このインドの声明にアメリカ、イギリスをはじめとする国々がインドの立場を支持しますが、当の中国はどこ吹く風。この後チベットには、インドが心配した事が現実になって襲い掛かる事になります。事態を重く見たチベット国民議会は、当時16歳とまだ若いダライ・ラマに国家元首の地位を引き継ぐように要請し、危機が迫るダライ・ラマを国外へ脱出させる必要に迫られ、ダライ・ラマはインドへ一時避難することに・・

 事態の打開を図りたいチベット国民議会は、国連に中国による侵略の事実を伝え、国連軍による侵略阻止を求めますが、国連は動かず、中国の侵略を非難する内容の声明文を出しただけで終わります。国連が動かないとなると自分達でなんとかしなければなりません。

 チベット政府は1951年、チベットの意見を述べ、中国の見解を聞く為に代表団を北京に派遣しますが、待っていたのは強制的に協定を結ばせようとする中国代表団でした。
 チベット側代表には協定を結ぶ権限が政府から与えられておらず、これを拒否しますが、この場で協定にサインしなければチベットを即時侵攻するという恫喝を受け、代表団は苦しい立場に追いやられます。
中国側の代表は、侮辱的な言葉を浴びせ、暴力をほのめかし、囚人同様の拘束をチベット側代表に行い、議論さえ許さず、チベット政府に連絡を取ることも許さない。まさにインドが心配した強制的な交渉の場を作ったのでした。

 代表団にこの『協定』に同意させ、印璽を捺印させてしまえば良いと考えた中国側代表は、権限のないチベット代表団が印璽を持参していない事を見越して、あらかじめニセの印璽を用意していました。
この場で署名しなければ、即刻侵攻するという中国側の恫喝に屈する形で、チベット側代表団はこの『協定』に署名してしまい、中国側は用意したニセの印璽を捺印して協定を結んだ事にしてしまいます。
 協定は17か条からなっており、チベットの外交権を中国に譲渡し、中国軍のチベット入りを許可する規定があり、事実上の中国傘下に置かれる内容となっており、独立国チベットに著しく不利な条件でした。

 偽りの協定を結んだ中国側は3日後、共産主義者お得意のプロパガンダ放送を行い、『チベットの平和的開放』のための協定が結ばれたと大々的に宣伝。協定締結の報を聞いたチベット政府は当然驚きます。代表団には全権を与えておらず、署名捺印する権限など与えてなかったのにもかかわらず協定が締結されたなんて、まさに寝耳に水。
即刻、代表団に連絡を取り、事の次第の説明を求めますが、ここからの中国はまさに電光石火で事態を進めていきます。

 チベット政府から叱責と説明を求めるメッセージが届き、北京に残っていた代表団は電報で返信します。その内容は、すでに中国側代表の張将軍がダライ・ラマに会うべく、インド経由で避難先であるドモに向かっているという事と共に、チベット側代表団もラサに戻ることを伝えてきたのでした。
 
 一時避難していたダライ・ラマは、この報を受けてラサに戻る決意をします。1951年8月にラサに戻ったダライ・ラマは、この一方的な内容の協定を、中国と再交渉してマシなものにしようと考えますが・・

 翌月、王司令官率いる人民解放軍2千名がラサに到着、続いて張将軍率いる2万の軍勢もラサ入り。外部の帝国主義者からの開放を謳った人民軍でしたが、外国人は当時たったの6名しかおらず、いったい誰からの開放なのかと問い詰めてみたいですが、これはただのお題目。
 駐屯する人民軍兵士の食糧などの調達をチベット側に要求し、自給自足で慎ましく暮らしてきたチベットには、要求に答える十分な食糧などなく、経済はあっという間に破綻し、国民は飢餓の淵に立たされることに。
 その間にも着々とチベット主要都市の占領を実行し、全土を掌握した人民軍は、さらにダライ・ラマ以下、チベット政府に圧力を強めていきます。
 中国の横暴に怒ったチベットの人々は、不当に占領している人民軍に対して撤退要求を出しますが、中国は2人の国務相を、首謀者であり帝国主義の手先と決めつけ、撤退運動の先頭に立っていたルカンワの解任をダライ・ラマに要求します。

 この要求をダライ・ラマは呑んでしまいます。その理由として

「私は中国に対して立ちあがったルカンワを大いに賞賛する。しかし私は彼をそのまま国務相の地位に留めるか、中国の要求に屈して解任するかの決定を下さねばならなかった」

「中国当局に反対しその怒りを買ったところで……結局はさらなる暴虐と圧制、人民の怒りという悪循環を招くだけであっただろうから」

と、難しい決断を迫られ、これ以上国民が殺されるのはたくさんだと思われたのでしょう。為政者として苦渋の決断であったとおもいます。こうして、ニセの協定も実質拒否する事が出来なくなり、中国のチベット侵略は完成する事に。

 1959年ダライ・ラマはインドへ亡命し、自由に発言できる機会を得て、ニセの協定を正式に拒否しますが、既にチベット内の実権は無く、チベットの人々は受難の時代を生きていく事となります。

 さて、ここまでかなり長いエントリーとなってしまいました。
チベットについての知識があまり無かったこともあって、当初2回のエントリーでまとめようと思っていたのですが、あまりに大きな問題を抱えるチベット問題を端折る訳にはいかず、この辺で区切らせて頂き、次回のエントリーでも引き続きチベット問題を扱っていきたいと思います。

 分かっていたつもりでしたが、中国のやり方というのは、吐き気がするほど姑息で汚いですね。このような国に目をつけられたチベットは不運であったというほかありません。チベットを占領する過程、そして現在まで続く中国によるチベット弾圧の歴史も目を覆いたくなる程、過酷で悲惨です。
中国という、実際に現在進行中の侵略をしている国が隣にあるということを改めて認識すると共に、話の通じない武力頼りの国と相対するには、自衛の手段をきちんと構築しなければならないと強く感じました。
 
 それにしても、このような中国の膨張主義の危険性をマスコミや外務省が、もっと早く日本国民に知らせていたら、改憲の議論は進んでいたと思います。 チベットが侵略された1950年当時、日本はGHQの占領を受け、朝鮮半島では戦争が始まり、この問題が国民的議論にならなかったのは仕方ないとしても、現在まで続いている不当な占領に関して、社会の木鐸を自認するマスコミが報道しないのは益々解せません。
 昨日に引き続きまして マスコミはもっと中国の真実の姿を国民の前に明らかにして見せるべきだ! 
取り乱しました(笑)では、また明日。


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